全国ご巡幸 戦の わざはひうけし 国民を おもふこころに いでたちてきぬ 昭和二十一年二月十九日の神奈川県下の昭和電工を振り出しに、二十九年の北海道ご視察まで、ご視察日数百六十五日、全コースは三万三千キロにおよびました。国家の運命のような戦でありましたのに、その罪を一身にお背負いになられての巡礼の行脚そのままの御姿に、国民は感激しふるい立ったからにほかなりません。戦後、大東亜戦争の戦勝国にまさるとも劣らぬ国家として見事に我が国は復興を果たしました。 しかし、昭和二十三年のご巡幸はまったくありません。昭和二十二年五月に片山哲社会党内閣が誕生以来、政情不安が続いていました。占領軍最高司令部のなかの、皇室に好意的でない派が優勢になったことで、ご巡幸の中断へと追い込んだと言われています。好意的でない派は、ご巡幸によって、日本の民衆は戦禍がすべて天皇の責任にあると、天皇は恨み憎みの的にされるだろうと、考えていたのです。ところが、どうしてどうして天皇さまに熱狂的で禁止も聞かずに日の丸の旗の波、君が代の渦でお迎えし、よろこぶ日本民衆に危機感をいだいたのです。それでご巡幸が中断されたのだといわれています。 ご巡幸が中断されていた各県や県民から復活を願う嘆願書が、宮内庁に続々と届きました。天皇さまは、全国を巡って国民をなぐさめ励ますことが、なによりの日本再建の力となり、これがご先祖と国民に対するご自身の努めであるとの、最初の御思いは少しもお変わりでありませんでした。 佐賀県基山町の因通寺の引き揚げ孤児寮、洗心寮に、天皇さまはご巡幸になられました。天皇さまは各部屋でお迎えする子供たちの前に立たれます。いちばん最後の部屋の前で天皇さまは立ちどまれ、そのまま部屋にはいっていかれました。そこには両親の位牌をだいた女の子が立っていたのです。「だれの?」「父と母です」「どこで?」「父はソ満国国境で、母は引き揚げて死にました」「おひとりで」「日本のおじさんおばさんに連れられて」。天皇さまはじっとこの顔をご覧になって、何度もうなずいておられました。「お淋しい」と、それは悲しそうなお声で言葉をかけられました。ところがその子は首を横にふったのです。 ご生誕100年 昭和天皇 出雲井 晶著より |